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「愛」と「罪」を描く日本文学の力とは…

2025.07.15

本記事では、「なぜ日本文学には不倫が多いのか?」という問いを軸に、古典から現代文学までの代表作を通して、不倫や婚外恋愛が文学で描かれ続けてきた背景を探ります。『源氏物語』に始まり、近松門左衛門の心中もの、夏目漱石・谷崎潤一郎・三島由紀夫・渡辺淳一ら文豪の作品を通じて、義理と情、愛と罪の葛藤がいかに描かれてきたかを紹介。文学は不倫をスキャンダルではなく、人間の複雑な心理と社会との対立を映す鏡として描いてきました。読者はこうした物語を通じて、倫理を越えて人の心に潜む欲望や渇望、そして愛とは何かを深く問い直すことができます。禁じられた恋は、今も昔も、人間の本質をあぶり出す強力なテーマなのです。

結婚していながら別の誰かを愛してしまう―現実ならばスキャンダルになりかねないこの状況も、文学の世界では昔から数多くの作品で繰り返し描かれてきました。日本文学をひもといていくと、古典から現代に至るまで驚くほど多くの作品が不倫(婚外恋愛)を題材として取り扱われています。禁じられた恋、人に言えない秘密の恋愛……それらはいつの時代も人々の心を強く揺さぶってきたテーマだからでしょう。では、なぜ日本の小説家たちはこれほどまで“不倫”の物語を紡ぎ続けているのでしょうか。本記事ではその背景にある歴史や文化、そして「愛と罪」を描く文学の力について解説をしていきます。

恋愛小説はなぜ「許されぬ恋」から始まったのか

歴史を振り返れば、東西を問わず文学史上の最初期から「許されぬ恋」は物語の重要なモチーフでした。世界最古の長編恋愛小説ともいわれる『源氏物語』は、現代の倫理で見れば主人公・光源氏の度重なる不義恋愛、いわば“不倫”の物語です。欧米でも、中世の騎士伝説『トリスタンとイゾルデ』は明確に婚約者以外との恋、つまり不倫の恋を描いています。そもそも恋愛小説というジャンル自体、当初は「禁断の恋」=不倫の形で始まったとも言われています。それは「人間が『恋愛感情』というものを、恋愛が許されない環境の中ではじめて知った」からだとも言われています。かつて社会的・制度的に自由な恋愛が認められていなかった時代、人々は許されざる関係の中でしか真に燃えるような恋を体験できなかったのです。だからこそ古今東西の物語は、王や貴族の政略結婚の陰で芽生えた秘めた恋や、身分違いゆえに引き裂かれる悲恋を描くことで、愛の情熱や苦悩を表現してきました。

日本文学においても、「許されぬ恋」は文学の歴史の初期から重要なテーマでした。平安時代の『源氏物語』にはじまり、中世の軍記物や説話にも不倫の逸話が散見されるほどです。江戸時代の浄瑠璃や歌舞伎では、既婚者同士が心中に至る物語が人気を博していました。不義恋愛が発覚すれば死罪にもなりかねなかった当時、心中という究極の選択肢は愛の貫徹と罪の贖いを同時に果たすものとしてドラマチックに描かれていたのです。近松門左衛門の『冥途の飛脚』『心中天網島』などの心中ものは、義理(社会規範)と人情(個人の情愛)の板挟みに苦しむ男女を描き、禁断の恋がもたらす悲劇を通じて人間の情の深さを浮き彫りにしました。ここには日本的な「義理と人情の葛藤」が色濃く表れており、夫婦という公的な契約と個人の秘めた情熱との衝突が物語の核になっています。極限まで抑圧された環境下だからこそ、愛の炎はかえって燃え上がる—そのダイナミズムこそが古典の不倫物語には宿っているのです。

文豪たちが描いた「愛と罪」のドラマ

明治以降の近代文学でも、不倫のテーマは繰り返し取り上げられてきました。近代日本は西洋的な恋愛結婚観が流入した時代ですが、それでもなお伝統的な家制度や世間体の影響を受けた恋愛感が根強く、作家たちは男女の情愛と倫理観との衝突を題材に人間心理を追求しました。

夏目漱石の『それから』は、友人の妻を愛してしまった男性の苦悩を描いた作品となっています。主人公は良識と情熱の間で引き裂かれ、最終的に背徳の道を選びますが、その結末には当時の社会規範への挑戦が滲んでいます。また漱石の『門』では、かつて不倫の末に一緒になった夫婦がひっそり暮らす姿が描かれ、過去の罪の意識がじわじわと二人を苛む様子が印象的です。漱石自身の作品中には「恋は罪悪ですよ」という有名なセリフも登場しますが「愛すること」と「罪を背負うこと」が紙一重であるという感覚は、この時代の人々にとってリアルな問いだったのではないでしょうか。

大正・昭和期の文豪たちもまた、不倫という題材に人間の業やエロスの深淵を描き出しました。谷崎潤一郎の『鍵』や『卍(まんじ)』は、夫婦間に渦巻く嫉妬と背徳の官能世界を巧みに描いた名作です。特に『鍵』では、老教授である夫と妖艶な妻、それに妻の愛人となる青年という三者の心理戦が日記体で綴られ、互いに相手の日記を盗み読みしながら欲望と欺瞞がエスカレートしていくという大胆な構成を取っています。夫婦の間に潜む秘密と猜疑心、そして禁断の逢瀬のスリルをリアルに描いたこの作品は発表当時大きな反響を呼び、不倫小説の白眉として語り継がれています。同じく谷崎の『卍』では人妻同士の同性愛的な関係まで絡め、不貞の愛の多面性を描き出しました。

昭和中期には三島由紀夫が『美徳のよろめき』で良家の貞淑な妻が一線を越えてしまう姿をスキャンダラスに描き、当時「よろめき」という言葉が不倫の代名詞として流行するほど社会に衝撃を与えました。また川端康成の短編『舞姫』(※森鷗外の同名作とは異なる)では、上流階級の人妻が元恋人との逢瀬を重ねる一方、娘までもがその元恋人に淡い恋心を抱くという複雑な人間模様が繊細に描かれています。これら文豪たちの作品では、不倫という道徳的な“罪”を犯しながらも抗い難い“愛”に身を焦がす人間の姿が、生々しくも格調高く描かれているのです。

戦後から現代にかけても、不倫のテーマは小説の世界で命脈を保ち続けています。1970年代には立原正秋が一連の作品で、美学的ともいえる厳粛さをもって不倫の恋を描いたことで知られます。彼の小説に登場する男女は不倫関係にあってもどこか凛とした風情を感じさせます。不倫の恋は成就を求めない—明日も続く保証がないからこそ、刹那のきらめきの底には常に暗い影が沈んでいる。立原の描く男女はまさにその 「刹那の輝きと闇」 に身を委ね、逢うごとに「これで最後にしよう」という諦念と戦っている。だが、実際にはその諦念も虚しく逢瀬を重ねてしまう。そうした苛烈な美しさが読む者の胸を打ち、禁断の恋物語に独特の気高さを与えていました。

一方で、1980年代以降になると、不倫小説はより大衆的なエンターテインメントとしても消費されるようになります。森瑤子の『情事』や林真理子の『不機嫌な果実』などは、当時の流行や世相を反映しつつ男女の愛欲劇を描いてベストセラーになりました。なかでも社会現象となったのが、渡辺淳一の小説『失楽園』(1997年)です。中年の男女が不倫関係に陥り、やがて情死という結末に至るこの物語は、「大人の純愛小説」として幅広い層の読者を惹きつけました。メディアで盛んに取り上げられ映画化もされたことで、「純愛か背徳か?」といった議論を巻き起こしたのも記憶に新しいところです。これら現代の作品では、家庭生活の中で満たされない心の隙間や中年期の孤独感、あるいは性愛への欲求といったものが不倫という形で噴出する様が描かれています。かつての文学のように悲劇的な崇高さ一辺倒ではなく、現代人のリアルな等身大の悩みとして不倫が描かれる点に特色がありますが、それでもやはりテーマの根底にあるのは「禁断の恋」のスリルとロマンです。読者はフィクションを通じて、自分の日常では味わえないような激情やドラマを疑似体験し、時に登場人物の愚かさや純粋さに自らを重ね合わせるのでしょう。

禁じられた恋を通して文学が映すもの

では、文学はなぜこれほどまで“不倫”というテーマにこだわるのでしょうか。それは、おそらく文学が人間の本質を掘り下げるうえで「禁を破る恋」という極限状況が格好の舞台になるからではないでしょうか。婚姻制度や社会規範という強固な枠組みから外れた関係は、人間の欲望や感情をむき出しにし、普段は隠されている心の本音を炙り出します。作家にとって不倫は、愛とは何か、幸福とは何か、そして罪とは何かを問うための濃密な試験紙のような役割を果たしてきたのです。

文学は現実の道徳や善悪のジャッジを下すことよりも、むしろ登場人物たちの内面の真実を描き出すことに力点があります。不倫という題材は、一見すると倫理に背く“悪”ですが、その渦中にある当事者にとっては純粋で切実な“愛”である場合もあります。この相反する価値観を同時に表現できるのが文学の強みであり、醍醐味でもあります。読者は物語を通じて、当事者の視点に立ちその心理を追体験することで、安易な善悪二元論では測れない人間の複雑さに気づかされます。たとえば、小説の中の主人公が味わう陶酔や罪悪感に寄り添ううちに、「もし自分だったらどうするだろう?」と想像を巡らせずにはいられないでしょう。そうした内省こそが文学の喚起する力であり、読者の心に残る余韻を生むのです。

もう一つ見逃せないのは、不倫というテーマが持つエンターテインメント性と寓話性です。背徳の恋はスリルやサスペンスに満ち、物語として単純に「面白い」。愛欲劇の行方をハラハラしながら見守る読書体験は、古今東西変わらぬ人間の娯楽欲求を満たしてきました。同時に、破滅や罰という結末が用意されることも多い不倫小説は、読者にカタルシスと教訓を与える寓話にもなりえます。いわば蜜の味と苦い後味、その両方を味わわせてくれる物語として、不倫という題材は文学に独特の深みをもたらしているのです。

愛と罪が描くものとは…

「愛」と「罪」を描く文学の力とは、まさに人間の光と影を余すところなく映し出す力と言えます。禁断の恋に身を投じる登場人物たちの姿を通じて、私たちは愛の崇高さも愚かさも知るでしょうし、規範の意義や限界についても考えさせられます。日本文学に不倫の物語が多いのは、それが単なるスキャンダルではなく、人間の本質を問う普遍的なテーマだからこそなのでしょう。現代では不倫は厳しく非難される行為ですが、それでも物語の中で我々がそうした恋に強く惹かれてしまうのは、やはり誰もが心の奥底に秘めた「もうひとつの愛への渇望」をどこかで理解しているからかもしれません。文学はその微かな炎にそっと光を当て、人間とは何か、愛とは何かを問い続けるものになります。たとえそれが道ならぬ恋の形を取るとしても、そこで紡がれる普遍のドラマは、これからも多くの読者の胸を打ち続けるに違いありません。

あかね

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